においのはなし

 人から指摘されると気になるもので。日頃香水は使わない、というよりもバイトをしていたころはバイト先の匂いが染みついていたものだから余計な匂いはこれ以上いらなかったというのもある。
 だから、そう。指摘されたときは本当に不意打ちで。原因に気づいた瞬間じわりと広がる熱に落ち着かない。このまま素直に帰宅したとしてこの熱が引くかといえば否だろう。
 肩にかけ直したトートバッグの底にはいつでも来な、と渡された鍵。それに狐の根付を結びつけたのはなんとなくだ。別に、家主のことを意識したわけじゃない。だというのにその鍵を見るたび嬉しそうにするのを知っているからあまり使わないそれ。だから引っ張り出したのは気紛れだ、ただの気紛れ。言い訳をしながらかちゃり、鍵を回して扉を開ければ玄関には見慣れたブーツ。
「おじゃましますー」
 この時間なら居間だろうと廊下の奥に向かって声をかけても返答はなく。日が沈んで暫くたっているとはいえまだ眠るには早い時間。外から様子をうかがった時は電気がついていたから帰ってきてはいるだろうけれど、と部屋に足を踏み入れる。
 ――ふわり、立ち上る煙は嗅ぎなれた香の、少し甘い……甘い?初めて出逢ったころにかいだはずのにおいはこんなにも甘かっただろうか。改めて意識してみると女物の香水程の甘さはなくとも確かに残るその香りが随分と気になってくる。初めて出会った頃とかけ離れたものではないけれど、この甘さはなかったような。
 一度引っ掛かりを覚えてからはつられたように引きずり出される違和感。どれも確証はないものだけれど、たまに近寄ったときに狐からかおる不自然な甘ったるさだとか、自室の墨のにおいに混じる違和感だとか。気が付けばぞわりと冷たいものが足元を這う。確信が持てないだけに妙な感覚が離れてくれない。

「んん……北村?」
 氷に侵されたかのように固まる足が、フローリングに直に丸まった家主の声によって一気に氷解する。
 最近急に気温が上がったからバテたのか。扇風機をいつ出すかで悩んでいたときにさっさと出しておけばと言っておけば良かっただろうか。どちらにせよ、こうして冷たいところを探している気はするけれど。丸くなって床の冷たいところを求める様はまるでとぐろを巻く真白な蛇のよう。
 こうして暑いのは苦手だと言う割りにふたりで眠るときには抱き枕代わりにしてくる。その矛盾が少しばかり鬱陶しかった<かわいらしかった>のだが。

「はい、北村ですよー。おじゃましてますー」
「いらっしゃい……」
 加えて暑さにやられてかぼんやりと気の抜けた表情。日頃弱味を見せないこのひとが目の前で油断する姿はこんな時でもないと見れないからついからかいたくなる、が。いまはあまりそういう気分にもなれない。
 なにかを振り払うように頭を数度振って起き上がるひとに無理しないでいいよーと言いつつもあまり気乗りしない声になってしまった。
 だって。あんなに熱かったはずなのに、ここはこんなにも寒い。
「雨彦さんさー、前使ってたのこのお香じゃなかったよね?」
 さっさと違和感を取り払ってしまおうと問うた声は震えていなかっただろうか。無理矢理震わせた咽は乾燥してひりつく。違うと言ってくれないかという願いは聞き届けられない。
「これは嫌いだったかい?」
「んー……嫌じゃ、ない。けど」
 嫌いか、嫌いじゃないか、なら。そう。嫌いではない。香水とは違う、煙特有の霞む香りは落ち着くもので。 家主がいなくとも慣れた香の残る居場所は落ち着いた。ここにいてもいいのだというかのようで、獣が自分の縄張りににおいをつけて主張するのもわかる気がするとこっそり笑った記憶が蘇る。
「…………こっちの方がお前さんに似合うだろう」
 もっと早く気付くと思っていたが随分とかかったな、なんて。
 唖然とした。いつかの瞬きの間に見せた焔のような執着はどこへやら、掴み所のない――けれど、反応は少しばかり素直になったこのひとは、涼しいかおをしてなにをしでかしていたのか。
 甘いだけではない、火を点され仄かに漂う煙は執着の形だと。
「逃がすつもりはないと、言っただろう?」
 そう、いつになく穏やかに笑う姿に悪寒が走った。

 

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無配のアレのプロットに加筆
気が付いたらこうなってたのそういうところだぞ想雨

2018/05/13